梶原一族と沼島水軍

 このような功績をあげた梶原景時ですが、景時の供養塔がなぜ沼島にあるのでしょうか。
 景時は頼朝の死後、鎌倉から追放されました。京都への途についた1200年1月、北条氏のあやつりで駿河入江一族との遭遇戦により、景時・景季(かげすえ)らは全滅。その後、一族は離散し、水軍の家系と旧縁をたよって紀州・沼島・阿波・播磨などへ来ました。沼島では、景時滅亡の年にその一族が沼島城主になっています。このことは、沼島の梶原城主の家紋が、梶原家の家紋である矢はずの並びたてであることから分かります。


                                                                                                                               梶原家家紋

 次に、私たちが調べて作った年表から、梶原一族に関係したことをピックアップしてみました。

○1200年  沼島城主に梶原景時の一族がなる
○1340年  沼島城主、梶原太郎左衛門、細川軍と対戦
○1436年  梶原俊景が沼島八幡宮を創建する
○1429年〜41年  
         梶原播磨守が淡路上本荘古城主郷丹後守を攻め、福良にて自害に追い込む
○1521年  足利十代将軍義植が流浪の末、沼島に来て梶原の庇護を受く
○1533年  梶原越前守景節が沼島八幡宮と西光寺を再建
○1579年  高砂城主、梶原平三兵衛(景秀)沼島から引田へ移る
○1580年  梶原秀景が沼島八幡宮を再建する
○1581年  梶原秀景が阿波三好勢に攻撃を受け、沼島浦「殿とび」の岩頭より入水
         梶原氏の治世終わる

  「神宮寺縁起」には、1436年に俊景が沼島八幡宮を創建したことが記されています。1533年には景節(かげさだ)が、1580年には秀景が沼島八幡宮を再建しています。このことからも、梶原氏が沼島水軍であり、その総帥(そうすい)であることを物語っています。
 梶原氏に関係する所として
○蓮光寺は、梶原家代々の居城のあった所です。
○八幡神社は、俊景が創建しました。
○神宮寺は、梶原家の菩提寺でした。11月21日には梶原氏の子孫(顕彰会)の方々が、はるばる愛知県犬山市からお参りに来ました。
○神宮寺宝物の曼茶羅(まんだら)と入大乗論(にゅうだいじょうろん)は梶原氏が寄進したものと言われています。
○西光寺は、景節(かげさだ)が、現在の地に再建しました。
○沼島庭園は、足利十代将軍義稙(よしたね)が梶原氏に贈呈したものです。
○殿飛び岩は、秀景が、阿波三好に攻められ、乗馬もろとも入水した場所と言われています。これにより、梶原氏の沼島での水軍領主としての治世 が終わることになります。この翌年、本能寺の変により秀吉が天下を取ると、沼島は脇坂氏の直轄地におかれましたが、沼島水軍としての働きは、 まだまだ終わってはいませんでした。

   
            蓮光寺                      八幡神社                       神宮寺

  
         愛知県犬山市からお参りに来た梶原氏の子孫(顕彰会)の方々

  
              神宮寺宝物 (梶原氏寄進)

  
          西光寺(梶原氏再建)

     
                沼島庭園 

                                                                                                               殿飛び岩


 梶原一族と沼島水軍のトップへ