歴史班

調べた理由

 私たちが「沼島の歴史」について調べようと思った理由は、沼島の有名な遺物や遺跡に興味があったからである。昨年、五輪塔を調べたが、今年はさらにパワーアップして内容を濃くしてみた。新しいメンバーで、新しく戦時中のことも調べてみた。何故調べたかというと、戦時中のことはメンバーの皆もあまり知らなかったし、調べてみたいと思ったからである。

方法

 始めに、沼島マップを作り沼島にある歴史的な建物やお墓、爆弾投下場所などを地図に示していった。次に、その建物やお墓などを本などで調べたり、実際に見に行ったり、地域の人に話を 聞いたりして調べた。

 おのころ神社は南区のおのころ山にある。天と地を分ける橋があり二人の神様がそこに降りてきた。手にしていた天沼矛で 下界をかきまぜた。矛の先よりしたたり落 ちた雫が島となり、おのころ島となった。おのころ神社は2人の神、イザナギ・イザナミをまつった社である。沼島の別名「オノコロ島」 から引用し、つけられた。おのころ神社は、日本国創生の聖地として有名である。おのころ山は、山全体を御神体として、昔は大水ノ浦でお祭りをしていた。年月が経つうち、それもなくなりつつある。ところが近世になって、沼島庄屋メ田鷺平が山頂に祠を建てて、おのころ神社として旧暦9月15日の例祭を復活することになった。

 五輪塔は、南区のおだいしさんにある。2基の五輪塔のうち、右側の塔が鎌倉時代の造りで、兵庫県重要文化財の指定を受けている。景時は、水軍の勢力を持っていた。1180年、石橋山の合戦 で大敗した頼朝の負け残った兵を探している時、豪雨を避 けて、洞穴に潜んでいた頼朝 を、景時が故意に見逃した。そして源氏が復活した時、頼朝方につき、頼朝が死ぬまで、側近とし勢力を振るっていた。遺物や遺跡に関しては、岩手県、平泉にある中尊寺に、<入大乗論>というお経がある。それは、金と銀で一行ずつ交互に書かれてある。上下巻が沼島にあり、重要文化財に指定されている。

 沼島庭園は、室町時代に、第十代将軍足利義稙が管領細川高国と不仲になり、泉から淡路へ逃れ、そして沼島に移り住み、その時に造った庭園である。池の中に浮ぶ四つの島は宝・亀島・竜宮・鶴嶋という名が付けられている。沼島庭園は、山口県にある室町時代の画家雪舟の庭とそっくりです。その昔、義稙将軍 が周防の大内家をたより、十数年間そこに亡命していることが関係していると言われている。

 本田徳郎衛門丞は、楠木正成とともに南北朝時代を生きた人間である。1331年、金剛山の戦いで楠木正成を助け、お礼に感謝状と刀をもらい、それを神宮寺に納めた。しかし、湊川の戦いで、楠木正成共々忠死を遂げた。現在、神宮寺の裏の碑文にその功績が刻まれ、お墓が残っている。沼島に本田の姓はあるが、子孫かどうかは不明である。

              

 沼島古墳は、東区にある観音堂の裏の山にある。沼島古墳は古墳時代に作られた物である。海人族が沼島に来たと言われているのが古墳時代なので、海人族の頭など地位の高い人が埋葬されていると思われる。現在は、北区の細川さんの土地にある。昔、子供達が遊んでいて骨や遺物が見つかったが、怖くなって埋めてしまったそうだ。調査に徳島大学や洲本高校の先生が沼島に来た、埋葬されている人の地位は分からなかった。古墳時代に作られたと言うことだけが分かった。結論として、沼島古墳は謎に包まれている。

 

戦時中の沼島

爆弾が落ちた時

 爆弾が落ちる直前、子供たちが爆弾が落ちてくるのを見て、親に知らせた。その爆弾は、中区の大日堂の下に落ちた。子供とその家族は家の中で、頭に布団を被り、石などから身を守った。落ちた瞬間、爆弾の衝撃で地震が起き、体が浮いたような感じがした。爆弾が落ちた周辺は、砂ぼこりでとても暗く、夜中のような感じがし、とても火薬臭かった。

・沼島の港に爆弾が落ちて、そのときに灘から沼島を見ると、大きな水柱が立っていた。

・ 桟橋の所に爆弾が落ちて、魚が浮いていた。

・ 郵便局の前の海に爆弾が落ちて、海の中の石が飛び上がって、近くの民家に当たって、家が壊れた。郵便船が沈んだ。

・立神の方で、グラマンの艦載機に機関銃で足を撃たれた。

・子供が爆弾をおもちゃと思って遊んでいたら、爆発して死んでしまった。

・行座という兵隊がいたところに爆弾が落ちた。兵隊は逃げていたので、一般の人が被害にあった。

疎 開

 主に、大阪・神戸方面から、沼島に疎開してきていた。大日堂爆破後10日の間に、細川一家が、爆弾による被害から逃れるために、五色町、鮎原に移り住んだ。その時の沼島の人口は約3000人くらいで、その半分が疎開してきた人だそうだ。戦後2年から10年の間に、疎開してきた人の多くが引き返した。

戦争中の食べ物

・衣類や食物は物々交換のため、自分の着物等を持って灘へ行き、芋や麦と替えてもらっていた。

・畑を耕して、芋や麦などを作っていた。

・砂糖、しょうゆなどは簡単に手に入らなかったので、アメ玉をかわりにおかずの中に入れていた。

・米がなかったので、麦7合ぐらいと米3合ぐらいの割合でご飯を炊いていた。

・沼島の中でも、漁師と農家の人が物々交換をしていた。

・南区はおのころさんのところまで、泊区は江ノ尾の上のほうや、薬師浦から黒崎のところまで段段畑だった。

・家に近いところなら、大根、ねぎ、豆類などを作っていた。

・乾パンや薬、水筒などは常に用意しておいてそれを持って逃げていた。

・玄米の配給で、2合8尺だったのが1合8尺になった。

感 想

 私たちは、沼島の歴史について調べてみて、沼島に住んでいても沼島のことを、あまり知らないんだなと思った。今の沼島は、歴史的な建物や出来事、昔の人の生活の中での知恵や工夫などいろいろな ことの積み重ねからできているんだなと思った。私たちはこれからも、歴史的なものを守りながら、新しいものも作っていきたい。

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