(1)沼島の歴史
◎ 原始・古代・中世
1 おのころ島神話をめぐる沼島海人の先祖
森羅万象に神が宿るというアニミズムの上にたって、天上の神の存在を信じ、祭礼日には、空や海のかなたから神の降臨を迎え、海の幸、山の幸を供えて直会(なおらい)する。そこでシャーマンを通して神と語らい、豊饒と安全を祈願する、東南アジア地域、原住民の信仰が日本にも伝わり、更に日本の自然風土を土壌とした、神と人間との素朴な関係がつくりあげられていった。このようにして日本の国生みの神、海の神、山の神、島の神と住民が血縁化され、祭祀の対象としてあがめられた。こうした古代の習俗が子孫に伝承され、それが多分に国家意識を反映して撰上されたのが、古事記・日本書紀の神話である。そのはじめの国生みの神話、おのころ島とはどこか、沼島か淡路本島か、それともそれ以外の地か、古今諸説まちまちである。それぞれ地名や地質、辞句や古文献などを引用して論じているが、むしろこれは先住地の神話構想を日本に伝えた、海人族に焦点をあてようとするのが傾向でもある。そこで沼島海人の先祖が、日本へ初めて渡来してきた時期や経路、そして大和朝廷とのつながりなどから、この点を一考してみよう。
これらの海人族は、南北いろいろの経路から、日本へ渡ってきたことは勿論だが、いずれも舟で小島づたいに、徐々に本土へ着いたことは、筑紫の宗像三島をみてもわかる。九州や瀬戸内海西部のように早くから上陸定着したものであれば、生来定着を好まず、遠方へ出かけ漂泊を常としたものであった。瀬戸内海でも特に東部の海人に、この傾向が強かった。南海道でも、雑賀崎、堂浦、土佐御畳瀬(みませ)などは、沼島の地形と同様に、上陸定着性に乏しい立地条件であったことにもよろう。彼らの先祖は、荒い波風とたたかい、海上漂泊を重ねながら、黒潮にのって北上し、更に南風で紀伊水道へ入ったものとみられる。ここで注意しなければならないことは、これら古代海人族には禁忌があって、直接大陸や本土へ上陸せず、何よりもまず拠点とすべき小島をさがしたことである。それもあまり小さい島では、重要な水が得られないからだめである。上陸しても農耕に従事するのではないから、平野は求めないが、筏や平底船のつけられる砂浜がほしい。更に重要なことは、島山が神の降臨にふさわしいかどうかに深い関心を持ったようである。紀伊水道でこの諸条件を満たす島は、沼島を第一とする。沖合から眺めて、周囲4q弱の勾玉形の小島、それにゆるやかな立錘形の山を背にした巨大な陰陽石が、まず彼らの信仰心を満足させたにちがいない。この島を半周してみると小湾と砂浜がある。上陸してみると猛獣も原住民もいない。そして島の南部には古水、大水、水の浦などの水源がある。第一の拠点としてこの島を選んだことは明白である。そして随次淡路本島、阿波、紀州など、より広大な本土へ活動範囲を拡大していったものと考えられる。弥生時代の末には、すでに南海道や瀬戸内一帯に、こうした海人族の分布がみられる。
沼島の地誌伝承、埋蔵出土品、ならびに古水大水の浦や中区(その一部は現在の沼島港湾の海底)一帯に散見される貝塚、製塩遺跡などから、海人族の一部は沼島に残留し、ここに生活の根をおろしたことがわかる。島の北部の入り江(現在の泊、東区)に舟を留めた。そして漁業に従事するほか、女は海岸沿いに海草やサザエ、カキ、アワビなどの貝類を採り、あるものは塩を焼いて果実や芋を食べたことがわかる。また一方、東部海岸の上立神(高さ33mの尖頭形の巨石)、下立神(高さ20mで中央に空洞の岩−昭和9年室戸台風で大破)や岩礁(ばえ)を神聖視し、磐座(いわくら)とみたてて、二柱の神や竜神のまつりをしたり、神奈備(かんなび)の山の神を祖霊としてまつり、海上生活の安全と加護を、幾千年をへた今日まで連綿と、盛大に行い続けてきたことも事実である。さてこのおのころ島の命名は、各地にその例があり、それぞれその土地相応の由緒を持っていることを否定する必要はないが、以上のように海人族渡来の経路から見ても、沼島は第一の拠点であり、したがって、その子孫にとっては、まさに始祖の墳墓の地であった。新天地国生みの島だと彼らが言い伝えた故あることである。更にこのことは、大和朝廷との関係からも一考しなくてはならない。
2 古代の沼島海人
いろいろな経路から日本へ渡来した彼らは、次々に拠点を求めて上陸し、そこを足場として範囲を拡大、分散していった。そしてそこに集落がつくられ、いわゆる原始小国家が分立するが、やがて征服や和解を通して、地域統合が進み、ついに大和朝廷の統一となり朝鮮進出となる。その過程において、淡路は大和へ近いこと、すぐれた海人族のいる御食津国(みけつくに)であること、特に当時、大和朝廷の支配を心よく思わない吉備国をおさえるための戦略的要地としても、淡路は重要視され、歴代天皇の遊幸がしばしばあったのも、そうした意味からであろうと一般に説かれている。ここで古事記や日本書紀からの引用は割愛するが、氏姓制度の整備とともに、沼島を含めた淡路海人は、大浜宿弥系の阿曇連(あずみのむらじ)の支配下で、凡直姓(おおしのあたえ)をもったものの祖であり、淡路の国造となった矢口足尼の統率下にあって、ときには天皇を襲ったり、ときには遊幸のお相手をしたり、またこの地方から難波の大君への租庸調貢進の役を果たし、有事の際には、股肱とたのむ兵力となるなど大和朝廷とのつながりは最たるものがあった。
奈良時代末から平安時代にわたって、沼島海人についての記録は少なくなっているが、これは地方豪族の抗争が増え、朝廷も遣唐使派遣を中止するなど、その権威が地方の隅々にまでゆきわたらなかったことの一面を物語るものであろう。ことに当時は相当長期にわたって南海、畿内にかけて、大地震や旱害、飢饉が頻繁におこり、そのため南海、山陽道では、群盗や海賊がさかんに横行した特異な時代である。承和11年(844)淡路の浜浦が他国の漁人に冦掠されたことが「続日本後紀」に、そして貞観4年(862)に、阿波・淡路勢が近海の海賊をしづめたことが「三代実録」に記されている。また紀貫之の「土佐日記」にも海賊は夜歩きしないときいたので、夜半に船を出して阿波のみとを渡り、寅卯の刻(午前5時頃)に奴島(ぬしま)という所を過ぎて云々、と海賊の襲撃をさけて、陰暦1月の末、沼島沖の満潮を利用して、和泉国へわたった当時の模様がうかがわれる。
元慶4年(880)武蔵の僧、空海上人によって、沼島神宮寺が開基され、その縁起書には龍神と八幡大菩薩が協力して、永く三韓の死讎を摧く。本寺を本山とし十方貴賤帰依なさば、遠近によらず太平なりとあり、思うにこの頃この離島にまで進出した真言宗の呪術が、沼島海人の古来相伝のまつりと習合して、絶対の尊崇をあつめ、歴代領主の祈願所となるなでに栄えたところに、沼島海人の活躍を背景とした歴史的意義が痛感される。
さて地方に出没していた海賊の群も、天慶2年(939)伊予掾藤原純友の出現により、彼の手中におさめられた。更に彼はこれら瀬戸内一帯の海賊を率いて沼島に侵入し、近臣武島五郎秀之をここに配して、南海に反乱をおこしたが、まもなく小野好古(よしふる)、源経基(つねもと)らに破られた。その後もこのあたり海賊の横行は留まることなく、正暦3年(992)後の阿波守源忠良が阿波・沼島の海賊を追討し、更に大事4年(1129)から数年がかりで、備前守平忠盛が山陽・南海の海賊を討っていることからみても、平安時代の殆ど全期にわたって、沼島を拠点とした海賊が、瀬戸内一帯・阿波・紀州と連繋を保って、相当有力な存在であったことがうかがえる。
このような一連の歴史事実からみて、沼島海人たちも、最初は日常の漁労採集に携わるほか、海上水先案内や護衛または交易に従事していたのが、うち続く天災や不漁、地方政治の荒廃などで、もはや糊口にも事欠くありさまとなり、次第に盗賊掠奪がはじめられたと考えられる。それが地方豪族の強大化にともなって武士の勃興が芽生えたのと時を同じくして、彼らも次第に武装化し、軍船や軍需輸送にも徴用されるようになっていったのであろう。たとえば文治元年(1185)の源平合戦において、梶原氏の率いる熊野水軍が沼島を経て、阿波尼子浦から屋島を攻めたときも、阿波・沼島水軍が加わった。後年の梶原氏と沼島水軍の主従関係がこのとき芽生えたものと言えよう。正治2年(1200)梶原景時父子が北条氏の排除策にあって、駿河で敗死し、一族が四散したときは、水軍の家系と旧縁をたよって、それぞれ紀州・沼島・阿波・播磨などに落ち着き、漸次梶原の地盤を固めていったものと推定される。このことは沼島の梶原城主の家紋も「矢はずの並びたて」であったことからも首肯される。
3 中世の沼島水軍
鎌倉時代の土地台帳を一見しよう。貞応2年(1223)淡路守護職、長沼宗政の報告した淡路太田文の仲には、三原郡庄分として、「得長寿院(長承2年鳥羽上皇創建)杵八幡御領阿万庄、前地頭兵衛尉次忠国御家人、新地頭木村太郎、田百三町(本庄百町、沼島三町)」とあって、この面積は昭和期の沼島の水田のそれと大差がない。このことは古来海上業に専念してきた沼島人ではあるが、このときすでに最大限の水田を開いていたことになる。すなわち島の中央には、俗称こうろく池(湧水沼で昔の沼島の水道源)があり、その周囲にこの水田があった。そして南方の清水谷、東方の風呂の谷から用水をひいてきた。このように早くから水田耕作が行われていたが、だからといって沼島に農業専業者乃至は漁業との兼業者がいたことにはならない。沼島の水田耕作は俗に陸人(おかど)と呼ばれる、淡路本島の農家の子弟を年季奉行させて作らせたり、小作人として定住させたりしたことが続いてきたのである。ともあれこれらの水田が、この時代すでに国衙領に編入され、庄分となっていたようである。
鎌倉時代には全国の庄園に地頭が置かれたが、ここの地頭は承久の変で京方へ加担したため、鎌倉幕府にその所領を没収され、新補地頭がこれに代わった。そして全国に置かれた守護とともに、次第にこの庄分を押領し、いわゆる武家による領主化が実現されてゆくのである。淡路の初代守護は佐々木経高であるが、これも承久の変で京方に加担して免職となる。そのあと横山・長沼・和田氏などの名がみえるが、沼島の場合は阿波とともに、小笠原氏との関係の方が深かったようである。すなわち阿波の森水軍、沼島の梶原水軍は小笠原配下の有力な海上兵力であった。かの文永の役(1274)や弘安の役(1281)にも従軍しており南北朝時代にも南朝方に加担して足利氏や細川氏を苦しめたことが『太平記』に詳述されている。建武3年(1336)阿波淡路の兵、阿万・志宇知・小笠原の人々3千余騎官軍に加わりしかば諸郷甚だ喜べり。延元2年(1337)足利直義は細川頼春に命じてこれを討たしめた。また暦王3年(1340)脇屋刑部卿義助が南朝の勅命を蒙り、四国西国の大将を奉りて下向のとき、紀伊田辺の浜より熊野人兵船をととのえて淡路の武島(沼島)へ送る。ここには安間、志知、小笠原の一族ども、元来宮方で城を構えていたが、種々酒肴引出物をつくし、300余艘の船をそろえて、備前の児島へ送った、と『太平記』は当時の沼島水軍の動きを伝えている。また元弘の変(1331)では沼島の住人、本田徳郎右衛門丞が、南朝方の総帥、楠木正成の傘下に馳せ参じ、金剛山の戦いで抜群の手柄をたてて正成から感状を賜り、これを神宮寺に納め、祈願成就を謝して堂宇を再建したことが、同寺縁起書に書き残されているが、その後彼は惜しくも湊川の合戦で討死して、その墓は今も神宮寺にある。
この元弘の変にまつわる興味深い伝承がある。それは、この変で土佐へ流された尊良親王(後醍醐天皇の子)が、京都に残してきた御息所(みやすどころ)[御匣殿(みくしげどの)]の身に思いをはせ、日夜お嘆きのありさま、まことに痛わしい限りであった。警固の武士もたまりかね、御息所をそっとお連れすることを黙認した。そこで随身の右衛門府生、秦武文を京へ上らせ、御息所をお連れさせた。ところがその途中で、筑紫の海賊、松浦五郎一族に御息所を奪われた。秦武文は責任をとって自決したが、怨霊となって鳴門の海上で松浦の船を悩ませた。やむなく松浦は、御息所に一人の童を付け、小舟にのせて放免した。その小舟は流れ流れて沼島、水の浦に漂着した。漁民の介抱で助かった御息所は、2年余りを近くの大寺で過ごした後、京都へお帰りになると『太平記』も伝えている。沼島には今尚これにまつわる旧跡が多い。とりわけこの寺は王家にあやかり、その後は王寺とよばれ、またこの寺の地字(ちあざ)を王寺の森とよんだ。古来格式の高い寺で、このときから王流院の院号を冠した。その後、この寺は天正年間に移転して、現在の西光寺となったが、院号は今尚受け継がれている。由緒のあるこの王寺の地は、永く貴紳の地となるのである。
このように沼島は南朝方に関係の深い事跡や伝承がおおいのであるが、次第に北朝方が優勢になり、阿波・淡路方面でも、足利系の細川氏が栄えて、守護職の小笠原氏が衰運に向かうと沼島水軍の去就もあやしくなってくる。すなわち暦応3年(1340)阿波の新守護、細川頼春の弟、師氏が1万の大軍を率いて、淡路に侵攻してきた。ところが沼島の城主、梶原太郎左衛門は、淡路の総大将、宇原永真からの下知がないのを幸いに、日和見的態度に出た。やがて細川氏が大勝利を得て、京都へその旨注進船を出した。この船を沼島攻めと誤解した梶原方はこれと交戦に及んだが、まもなく事態の真相が判明して、今はこれまでと安易に細川方に降ったことになっている。しかしこれは全面降伏を意味するものではなかった。天下の動きを眺めながらも、なおも南朝方のゲリラ的抗戦が続いた。阿万や上田原での細川氏春と南朝方との交戦にも沼島は加担した。この動きを重視した足利義詮は、紀州の海賊、安宅(あたぎ)藤五郎頼藤を由良城によらしめて、沼島の海賊的ゲリラを押さえた。また、正天24年(1369)懐良親王を奉じて九州をたった南朝方水軍が、1ヶ月余りを費やして鳴門へ進出、そこで沼島や小笠原水軍との合流をはかったが、ときすでにおそく、彼らの首領と仰ぐ楠木正儀が北朝方に降ったことがわかり、その壮図も空しく、そのまま挫折した事実などからみても、当時の沼島水軍は、ときには去就に迷ったようなふしもないではないが、それは戦況の大勢、自己の利害、友軍との関連など虚々実々の面もあったのであろう。いずれにしても南北朝時代を通じて、沼島水軍の存在と威力は、敵味方とともに重視するほど、有力であったことがわかり、こうした事実を背景に、梶原氏は城主としての位置づけを固めていったものと思われる。また阿波の森水軍の場合も同様で、小笠原氏と細川氏に対して、沼島とよく似た行動をとっており、その点からも阿波と沼島の両水軍は互いは相呼応したことがうかがえるのである。
さて明徳3年(1392)南北朝が合一し、室町幕府が明や朝鮮との通商を開くようになってからの沼島水軍は、軍船としてよりも、貿易船に転向していったとみられる。またこの頃にはすでに、武装商船、海賊、豪族などが中核となって、船には八幡大菩薩の旗印を揚げて、朝鮮や中国の沿岸を荒らしまわるなど、初期の倭寇が横行していたが、沼島もこれと無関係ではなかった。一説には梶原氏は細川氏と密約を結んで、これらの船が細川船の表看板でまかり通り、その実は密貿易をすることを黙認させた。もし、密貿易が露見すれば、密貿易や倭寇船として扱うが、うまく成功すればその利益を両者が折半したなどとも伝えられ、また一説にはこれらの船が瀬戸内海を通ることで、大内船と紛争がおこり、その後沼島は土佐沖を経由したなどと伝えられている。これはひとり沼島だけではなく阿波との関連もあった。
かつて沼島随一の海商、海部屋(かいふや)の先祖は阿波の海部郡出身で、倭寇の先駆者でもあった。そしてこの細川船を舞台にして、朝鮮中国まで進出して、大内船とも競争したことが、これらのことを裏付けている。
梶原城主は代々、八幡大菩薩の崇敬が厚かったのもまたこうした背景から理解できるのである。永享8年(1436)梶原景俊は、京都石清水八幡宮の分霊を勧請して沼島八幡宮を創建した。だからこの八幡宮は一般の氏神といった性格というよりも、むしろ海上安全の武神といった性格が強く打ち出されていることが、創建事情からもわかるし、後の時代にもそれがますます強調されるのである。もちろん創建以前にも、神宮寺が祭祀祈願を行ってきたのであり、もともと原始宗教の時代から、火立(ほたて)山に山の神をまつり、平岩礁(ひらばえ)で竜王祭をしてきた。
応仁の乱の頃は沼島の戸数がわずかに32戸だったと伝えられている。これはかまどの数だろうか。この頃この地方には、大地震や大津波が、たびたびおこっているが、その被害を蒙ったためというよりも、やはり打ちつづく戦乱に狩り出された留守宅の寂れ方をいったものだろう。室町将軍や斯波・畠山氏の家督争いに端を発したこの乱には、阿波の守護細川成之は東軍(細川勝元側)に加担し、阿波・淡路の兵を率いて、西軍の将、斯波義簾を攻め、各地に転戦している。沼島もこれに根こそぎ動員された。島に残り糊口に窮したものは、出稼ぎなどに離散して島は極度に疲弊したのであろう。この兵乱を契機に足利将軍は傀儡化、幕府は連立政権化、土豪のほう起、国一揆などで、荘園は崩壊し、下克上の戦国時代の一大絵巻が展開される。延徳2年(1490)足利義稙が10代将軍に就任するがまもなく細川政元に追われ、越中から周防へ亡命して、大内義興の庇護をうける。一方細川政元の側でも3人の養子、澄之・高国・澄元(阿波の細川成之の孫)の相続争いがもつれる。このために義稙将軍と阿波細川家とは、姻戚関係にありながら政敵となった。また、ときには阿波細川と淡路細川両家が対立するなど、いよいよこの時代の世相をあらわにしてくるのである。永正5年(1508)義稙は、大内義興を従えて入京、細川高国に迎えられて再び将軍となる。ところが、いくばくもなく義稙と高国の間がうまくゆかなくなった。そこへ大内氏の帰国などもあって、遂に大永元年(1521)将軍義稙は、管領、細川高国の専横を怒り、和泉から淡路へ走るのである。洲本の黒木の御殿でしばらく仮住居をしてから、奥方の里である阿波をたよって出かけたが、そこでも冷遇されたとみえ、悲運のうちに大永3年(1523)撫養の竹島で、58才の生涯を閉じたのである。この足かけ3年の内ある時期を、沼島で過ごしたのではないかと、従来から言われてきたのであるが、単なる臆説にすぎなかった。これを裏付けるものが沼島になかった。ところが昭和35年に沼島郵便局長、伊藤氏邸の庭園が様式手法からみて、室町末のものであることがわかった。この地は尊良親王の御息所がかくまわれた、旧王寺のあったところで、代々貴紳の地であった。とりわけこの庭園のつくりは、義稙が永らく亡命していた大内氏の別荘(山口市宮野の常栄寺)の庭園(明応年間に画聖、雪舟が作庭したもの)とそっくりである。また当時足利家秘蔵の牧渓(中国南画の祖)の画法を、この庭の鶴島と蓬莱石の石組にそっくりとり入れた手法からも、この庭は洲本から海路阿波へ渡る途中この島の貴紳の地に一時身を寄せた義稙将軍によって、足利家代々の作庭の才をふるって作られたのではないかと推定されている。
そこで一つの疑問が生ずる。なぜ淡路へ来た義稙将軍が、淡路の細川家をたよらなかったかであるが、この頃の淡路細川家は有名無実の状態で、ほとんど三好氏の手中にあったといえる。すなわち淡路の細川尚春は、かつては義稙将軍の入京をはばんだ大将でもあったが、さらに三好氏との内紛がこじれて、永正16年(1519)三好之長に殺され、その子勝忠は細川高国に助けを求め、淡路守護にしてもらったが、単なる名目にすぎなかったようである。こうして細川氏を滅ぼした三好氏は、系図をたどれば、さきの守護、小笠原氏の子孫であり、もともと細川氏とは先祖の仇敵筋であったわけである。さらに勢力を伸ばした三好氏は、遂に室町幕府の実権も掌握する。このときの淡路の二大勢力は、安宅、野口の両氏であるが、いずれも三好長慶の弟を養子に迎え、これをバックに淡路を支配した。由良の安宅氏は熊野系水軍を率いていたから、沼島もこれに同調して、御家安泰をはかったことや、また旧小笠原系の三好氏にも同調したことが首肯される。沼島の梶原氏が淡路阿万の細川一族と戦ったのも、こうした政情を如実に反映するものであり、また天文2年(1532)に、梶原景節が八幡宮や西光寺を再建したのも、これと期を一にしている。
4 桃山時代の沼島
永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて入京したが、まもなく義昭との仲が不和となり、義昭を追放する。義昭は毛利氏をたよった。こうして信長は本願寺と毛利氏を敵にまわした。そこで毛利水軍の要路となった淡路岩屋城の攻防戦がくりかえされ、やがて天正9年(1581)秀吉の淡路攻めとなる。これは淡路の陸上兵力もさることながら、岩屋や由良を拠点とした海上兵力粉砕が主な目的でもあったろう。一方このとき、土佐の長會我部元親は、四国統一をめざして阿波に侵入してきた。まさに天下は騒然となってきた。沼島も淡路の三好、安宅氏が健在であった間は安泰であった。天正8年(1580)沼島の梶原秀景が大檀那となって、沼島八幡宮を再建(棟札現存)したのもこのときであった。ところがはやその翌年には東西を外患を迎えたのである。いくばくもなく沼島の梶原城主は敵の来襲に敗れ、城に火を放ち、裏山づたいに逃げて、馬もろとも海に飛び込んで相果てた。今でもその岩を「殿の飛びおり岩」と沼島ではよんでいる。これは長會我部配下の軍に敗走したのだともいわれ、また一説には、秀吉が淡路平定と同時に、洲本に仙石秀久をおいたが、そのとき梶原は仙石氏の軍門に降り、ひそかに阿波へ落ちのびた、そして子孫は今もいるといわれている。
天正10年(1582)本能寺の変により、秀吉が信長に代わると、天正13年(1585)四国の長會我部を討ち、蜂須賀家政が阿波の国主となり、その翌年に徳島入りをする。そして淡路では、脇坂安治が3万石の知行を得て洲本入りする。沼島も脇坂氏の直轄下におかれる。そして天正16年(1588)の禁令により、一般人は武装を解除され、海賊民は漁業を正業とするようになった。瀬戸内海の内外に大活躍した往年の沼島水軍も、ここで庶民化の一途をたどるかにみえたが、まだまだ彼らの腕と技術を必要とする歴史の必然性が待っていた。その第一は秀吉の薩摩、小田原征伐であった。これには蜂須賀、脇坂ともに出兵しており、とりわけ小田原攻めの場合、脇坂は船手の大将となって活躍しているから、当然、由良・沼島の水軍が中心となったことがうかがえる。
天正19年(1591)大陸進出をねらった秀吉は朝鮮出兵を断行した。この年から由良でも出征用の唐船をどんどん造った。翌年、文禄の役には、脇坂は水軍の大将として、由良・沼島の水夫をのりこませた唐船を率いて、勇躍遠征の途についたことはいうまでもない。文禄3年(1594)に九鬼水軍と交代して一旦帰国したが、翌年再び渡海、1年で帰還した。再び慶長の役にも出征して、川城一番のりや蔚山合戦などで活躍した。このように脇坂水軍は3回にわたって、玄界灘をのりきり、壱岐・対馬を経て遠征したことは、単に歴史年表にあげられただけの事実ではなかった。江戸時代における沼島漁民の対馬・五島列島などへの遠洋出漁に途を開いたことも、この朝鮮出兵がもたらした福音の一つである。また南海の孤島、沼島が広大な漁業権を維持したことも、沼島水軍の功績にむくいたものであろう。とにかく脇坂氏がこの沼島をどんなに重視したかは、神宮寺の記録や寺宝を一見すれば明白である。
文禄の役出陣にあたり、脇坂安治は沼島八幡宮に詣でて出征を報告し、戦勝を祈願した。とくに家紋である輪違の定紋を神宮寺に賜り、脇坂代々の祈願所として定紋の使用を許し、今も尚これを使っている。また凱旋にさいしては、八幡宮に報謝の金子を奉納している。神宮寺本尊、大日如来像、光背の裏には「文禄二年本堂修
繕、本尊修繕、御玉二枚を奉納、金品の菊灯一対を本田三太夫取持ちにて嘉納−文禄二己年十一月脇坂淡路守安治」と書き写されている。ただこの場合、淡路守は安治の子、安之のことであり、その任官は慶長5年(1600)であることからも、若干の問題があるが、おそらく磨滅した部分の後世の写し違いであろう。次に注目すべき寺宝は、神宮寺庭園である。この庭は急勾配の山畔を利用しているため、相当荒廃はしているものの、その様式は明らかに桃山時代の、武家好みの豪華な石組の庭である。その手法も一部京都の勧持院の庭(加藤清正が朝鮮凱旋記念に作庭寄進したもの)に類似した点などからも、脇坂安治が作庭寄進した庭であろうと推定されている。
このように梶原氏以来、海上守護の武神としての性格が強く、数々の由緒を持つ沼島八幡宮及び神宮寺を、脇坂氏もいたく崇敬したことがわかるのである。その後脇坂氏は関ヶ原の合戦では徳川方に味方し、慶長14年(1609)には、加増のうえ伊予へ移封された。そしてその後数年にして、淡路は蜂須賀至鎮に加封され、ずっと明治維新まで、沼島は蜂須賀藩政時代のもとで、新しい段階へ入ってゆくのである。
◎ 近世・近代・現代
慶長14年(1609)9月脇坂安治(わきさかやすはる)が伊予大洲に移封されたあと、淡路を一時預かったのは伊勢安濃津(あのつ)城主藤堂高虎(たかとら)であったが、やがて翌年2月に姫路の池田輝政が淡路を加封され、3男忠雄への譲分とすることを命ぜられた。天正9年(1580)11月に池田輝政は羽柴秀吉とともに淡路に進攻して、由良城主安宅清康を降したことがあったから、輝政にとって淡路は無縁の土地ではなかったが、淡路加封が忠雄への譲分という条件がついていたのは、忠雄の生母が徳川家康の2女督姫であって、忠雄は家康の外孫になるからであった。
同腹の兄、忠継には備前備中に31万石余が与えられており、淡路6万3千石がいままた忠雄の分として加封されたのである。封を受けた池田氏は中村主殿助を奉行として慶長16年に淡路一国の検地を実施し、津名郡王寺村(現在は津名町)の分が伝存する。
慶長18年(1613)正月に輝政が死ぬと、その遺領は三分されて嫡子利隆(生母は中川清秀の女)は播磨を、次子忠継が備前を、三子忠雄が淡路を継ぎ、忠雄は由良成山城を築き、また嘗ての毛利水軍の根拠地であった岩屋城を修築した。いずれも豊臣秀頼のいる大阪城包囲の意味を持っている。
大坂の役で忠雄は参戦して、船場で布陣した。ところが元和元年(1615)2月に兄の忠継が後嗣のないまま病死してしまい、弟の忠雄がその家督を継ぐことになって備前に移り、淡路の領地は収公して天領となったが、やがて阿波の蜂須賀至鎮(よししげ)の関ヶ原合戦、大坂の役での勲功の賞として、同年5月淡路6万3千余石を加封した。
ついで、元和3年(1617)1月岩屋廻り1万7千石を加増され、淡路全島が蜂須賀領となった。蜂須賀家では初め牛田宗樹を由良城番とし、岩田七左衛門・篠山加兵衛らが淡州政事方由良城番御用請持としてその補佐としたが、のちには蜂須賀家の筆頭家老であった稲田示植が由良城代となり、由良引け(由良城を壊して洲本城を新しく作りこれに引き移ったこと)の後も、稲田氏が洲本城代としてその職を幕末まで世襲した。
稲田氏は阿波に約1万石の知行地と淡路に4千石余の知行地をもっていたほか、城代(正確には淡路の御仕置職)として淡路の本藩支配地をも統治したのである。 阿波藩は淡路全島262村を、津名郡14組、三原郡12組の組に分けて、組ごとに組頭(与頭)庄屋をおいた。組は8〜14村ほどの村からなっており、村ごとに庄屋がおかれていた。水田耕作をする平野村、または山間部の山村とちがって、とくに漁村として栄えた海村は浦と呼ばれていた。浦は津名郡で15か浦、三原郡で7か浦あった(宝暦10年の郷村帳)。
沼島は三原郡油谷組14か村のなかに含まれ、沼島浦と書かれている。この油谷組というのは払川村、円実村、城方村、土生村、沼島浦、地野村、仁比村、山本村、吉野村、惣川村、黒岩村、白崎村、来川村、油谷村の14か村からなっていて、石高は926石余、戸数1124戸組頭庄屋は油谷村の奥野氏であった。村や浦にはそれぞれ庄屋があって、概ねその職を世襲した。このような組織が整備されたのは蜂須賀藩治下のことであるが、沼島で最初に庄屋になったものは次郎右衛門で、慶長4己亥年(1599)であったという。のちに阿波藩主の御茶屋が作られた場所(現在はセンターの場所)が次郎右衛門の居宅址である。「味地草」にはその翌5年に淡路に初めて検地をおこなったという。脇坂安治が洲本におり、加藤嘉明が伊予松山に移ったあとの志知城には代官所がおかれて、蔵入地支配をおこなっていた時代である。その後、次郎右衛門の養子与三右衛門が庄屋を継いだが、浦方騒動がおこって浦人が離散し、与三右衛門はその責任を問われて処罰された。秀吉の刀狩りで沼島の海賊的漁師は、漁師に専念することになっていた。あたかも大坂の両度の役があったり、領主も池田忠雄から蜂須賀至鎮に代わったり、なお流動的で安定な時期であるから、騒動の起こりうる条件はいくつもあったであろう。その後、しばらく沼島は荒廃に任せられたが、寛永2年(1625)阿波の板野郡住吉村から庄助左衛門・弥兵衛の父子が庄屋役として送り込まれてきて、沼島再建に着手した。父子の格式は小姓格であったといい、庄という姓を名乗っているから武士で、藩主至鎮の父、蓬庵家政(ほうあんいえまさ)に親近した者らしい。助左衛門は前庄屋与三右衛門の屋敷を拝領してここを役宅とし、与三右衛門の持船のうちの二艘を渡海船として使用することを許された。食料の乏しかった沼島に阿波から食料が運び込まれ、「油断なく猟申付候」と漁に専念するように命じられた。
その年6月23日に、蓬庵は次のような定書(さだめしょ)を下した。
由良 塩崎之間、於磯栗 (読み方) 由良より塩崎の間、磯にて栗石拾
石拾候儀、弥令停止候条 い候儀、いよいよ停止せしめ候条、
ぬ嶋為者共朝暮相守堅
沼島の者どもとして、朝暮あいに守り
政道可仕候、於致油断者
堅く政道つかまるべく候。油断いた
必可処厳科者也 すにおいては必ず厳科に処するべきも
寛永弐 もなり。
六月二三日(印)
蓬庵
栗石の拾取を禁じたのは、築城用に必要だという軍事的理由からであるが、由良から塩崎(今の潮崎)の間は、沼島浦の猟場であった。古来からそうであったものか、あるいはまたこの判物(はんもつ)によって確定したのかは定かではないが、寛永4年(1627)に畑田浦と沼島浦とが網場の争いをした裁決として、蓬庵はこの判物を庄助左衛門あてに下しており、両通の判物がその後沼島の猟場優先権を主張する根拠として提出され、またその故に「沼島の什宝」として代々の庄屋に申継がれたことを思うと、蓬庵のこの2通の判物は、沼島にとって最も貴重なものであった。明治30年、沼島と灘との間で漁場の訴訟がおこなわれた時にも、故実として主張された。
以上
急度申聞候[ ] (読み方) きっと申し聞かせ候。[
]の
之内畑田浦并沼島浦
うち、畑田浦ならびに沼島浦の人網
人網場申分両方聞届候、 場申分は両方聞き届け候。この上は
此上者右網場間を以後
右網場間を以後沼島へ申しつけ候間
沼嶋へ申付候間、随分猟
ずいぶん猟つかまつり浦役相勤むべ
仕浦役可相勤旨、浦人
きむね、浦人どもへ申し聞かすべく
共へ可申聞候、為其沼嶋之
候。そのために沼島の者ども、灘山
者共灘山分一仕儀 於沼島
分一つかまつる儀、沼島においては
其方かたへ分一運上仕度旨
その方かたへ分一運上つかまつりた
尤ニ候、是又自今以後其方
きむね、尤に候。これまた自今以後
可請取者也、
はその方請けとるべきものなり。
寛永四
六月十一日 宗一(印)
庄助左衛門とのへ
一読して破格の優遇が目に付く。沼島浦の漁師たちは蜂須賀侯の江戸参府その他船頭役、水夫役を浦役として勤めており、その反対給付として漁場の独占権が認められていたのであった。参勤交代などのおりに、蜂須賀侯の乗る船を「お召し」と呼び、80丁の櫓を立てたという。お召しを先導する船を「くじら船」と呼び、8丁櫓2交代で16人の加子が櫓をこいだ。船団の組むのに安政の頃(1854〜60)に加子327人、船頭40人を必要としたと伝え、藩侯の乗船の船頭は阿波波椿泊(つばきどまり)の泊甚五兵衛にきまっていた。この多数の漁師を徴用するために、阿波藩は各漁村に加子を割り当てていた。平時であれば参勤交代の所用ぐらいしかないが、いざ戦時ともなれば阿波水軍を編成する軍役でもあったから、加子には16歳以上の屈強な若者をよりすぐった。くじら船やお召しの加子は役人が出張してきてその前で櫓をおさせて決めたという。加子出役の割当は藩全体で1979、淡路の割当数は670で、沼島浦144,仮屋浦110,志筑浦101、江井浦55半、福良浦38,湊浦30,郡家浦28,都志浦26,松帆江尻浦25半、以下、釜口浦、東志知川浦、北志知浦、阿那賀浦、阿万灘の順であった。加子の指揮、統制に当たるものは加子頭で、その手当は米で、加子には銀で支払われた。沼島では加子御用の若者を常に島に留めて付近の海で漁業に従事させ、他国遠洋への出稼ぎを禁じていた。140名以上の加子役が割り当てられる沼島では、このために自由な出漁ができなかったが、その埋め合わせに広い海域を独占漁場として与えられていたのである。しかし、漁獲に対しては、当然課税があった。当時は、沖での抜売りは認められず、必ず「五分一所(ごぶんいつしょ)」で入札し、五分の一が税金として徴収され、藩財政の重要な財源のひとつになっていたのである。(元和3年より毎年運上銀は12貫500匁を納めている)もっともその一部は「酒手・茶代」という名で還元されて災害その他に対する救済金にあてられたり、また御元入銀(おんもといれぎん)という名の一種の出挙制度があり、出漁に要する資本を貸付け帰港後に高額の利をとるような抜け目のない制度もできていた。さて、寛永4年(1627)に沼島浦忠兵衛が庄屋に任命された。藩の保護政策で島が順調に復興し、沼島浦の住民のなかから庄屋を選べるようになったのであろう。庄助左衛門は多分、代官に昇任したのでもあろうか。寛永8年(1631)には助左衛門から沼島浦の検地帳が提出された。その写しは享保15年(1730)頃までは庄屋長右衛門の手許に伝えられていたが、今は所在がわからない[宝永3年(1706)の沼島の地高は348石8斗8升4合であったという]。
ところが、その後、助左衛門は御勤宜しからざる故に召返され御咎を受けたという。史料はその時期を明記していないが、助左衛門が蓬庵の被護下にあったらしいことを思うとあるいは蓬庵の死(寛永15・12・30)と無関係でないかも知れない。とにかく阿波に召喚される時、助左衛門は蓬庵の判物以下を庄屋忠兵衛に預けていった。忠兵衛のあとその孫太郎右衛門が庄屋を継いだが、元禄3年(1690)に勤務上のミスがあって庄屋をお取放ちになって、庄八が庄屋に任命された。実は庄八は太郎右衛門の子なのだが、親から庄屋役を相続したのではなく、太郎右衛門は御咎の儀があって役儀を取放ちになり、庄八は新規に庄屋に任ぜられたのだ、と強調している。元禄16年(1703)に賀集中村の庄屋であった又助が新しく庄屋に加えられて、沼島の庄屋が二人になった。宝永4年(1707)又助に御咎の儀があって役儀を召上げられ、その12月に長右衛門が庄屋に任ぜられた。庄八は正徳5年(1715)6月に漕船間違いがあって海上方より御咎を受け洲本城代稲田求馬のもとに連行されて、庄屋取放ち、跡取消しの処分を受けた。代わって浦年寄の弥六が庄屋に任ぜられ、忠左衛門と名を改めた。享保7年(1722)正月忠左衛門が病死した後には伜の弥六の願いによって幸八が庄屋に任ぜられた(この願い書はもう一人の庄屋である長右衛門が取り次いだ)。以上の庄屋役の変遷は享保15年(1730)10月に、沼島浦庄屋長右衛門、幸八の連名で角村新右衛門・池沢源五右衛門・石浜徳右衛門に提出した由緒書(「味地草」所収)によったが、同書にはこれに続いて次のような興味ある記事を揚げている。
寛永元年(1624)3月16日に、庄屋与三右衛門の娘が洲本宮本屋に縁付いており、その子が銀札場の座本が仰付けられた。そのあとは文意がとり難いが「庄左衛門与三右衛門末之忰何右衛門其子四郎三郎与三右衛門弐人有之、与三右衛門儀沼島御手口之節手代相勤享保年中□四郎三郎忰四郎三郎享保年中存在被居申子孫有之」と書いてある。与三右衛門の末の忰の何右衛門には四郎三郎と与三右衛門の二人がいて、この与三右衛門が沼島の銀札場の手代を勤めた。四郎三郎の子の四郎三郎は享保の頃の人で、その子孫は今も沼島に居る、という意味であろう。阿波藩が藩札(阿波・淡路札)を発行し、正金銀による売買を禁止したのは天和2年(1682)11月であった。(「味地草」)。幕府は金・銀・銅の三貨政策を建前としており、貨幣鋳造権は幕府の固有の権利と考えていた。その建前からすると藩札の発行が正金銀による売買を圧迫することは、幕府にとって容認しがたい事態であった。宝永4年(1707)10月幕府が諸藩の藩札を禁止したのは幕府の貨幣政策の建前からすれば当然であった。これによって阿波藩札の通用も中断したはずである。ところが経済的に窮迫している諸藩は、藩札を発行させることによって御用商人から運上金を得ており、また財政上のやりくりをつけていたから、その禁止は藩財政の崩壊をも招く深刻な問題であった。享保15年(1730)6月に幕府が藩札禁止を解いたのは、諸藩の財政破綻を救済する意味を持っていた。阿波藩でも8月に25年を限って銀札一円通用が許され、11月にその通用が実際に始まったが、淡路の銀札場は洲本・多賀村・沼島浦などに限定された。ここで沼島が銀札場に選ばれたのは、沼島の漁師たちが遠く大坂の雑喉場(ざこば)にも進出しており、農村と違って金銀を取り扱う機会が特に多かった当時の沼島の繁栄を物語るものであるが、その手代になった与三右衛門が洲本の銀札場の座本の縁続きであったということが、その裏にはあったのである。
沼島の代表的な商人は海部屋(かいふや)半次であった。屋号のように元来は阿波の海部郡の出身かと考えられるが、明和頃(1764〜72)に本拠を讃岐に移して廻船業を営んでいた。沼島には海部屋半次が300石渡海船10数隻と、小買いの漁船100余隻をもって操業していたという。その屋敷は北ノ丁城山の下の浜際にあって、西光寺にはその墓標が遺っている。そのほかにも中元屋、魚屋、井筒屋、泉屋、吉野屋、浜崎屋などの海商の名が伝えられており大坂の雑喉場とも関係が深かった。沼島の八幡宮の石灯籠の中に、天明7年(1787)沼島庄屋ト田貞右衛門と連名で雑喉場在のト田源右衛門の名が見られるほか、寛政のころ(1789〜1801)にも雑喉場からの献灯がある。拝殿の幔幕は雑喉場の神平商店から献納することに決まっていたという。
さて、宝暦4年(1754)の史料に庄屋七郎右衛門・長右衛門の名がみえるが、『沼島物語』によれば、以後の庄屋は次表の如くである。多田七郎右衛門家と、〆田長右衛門 家または貞右衛門家が、沼島の門閥家となっていたが、寛政12年以降庄屋が一人となり、文化4年(1807)に油谷組の組頭庄屋奥野弁吉が、文化10年(1827)には阿万の庄屋榎本新五郎が兼務庄屋となり、一時、沼島から七郎右衛門と実右衛門が庄屋に任じたが、嘉永3年(1854)には志筑の島田源兵衛が、安政3年(1854)には上灘の相川の立田虎三郎が庄屋をひとりで勤めるという事態になっている。多田、〆田両家の没落の後、幕末の岡家の抬頭まで、沼島浦には庄屋役を勤められる家が出なかった理由のひとつに、中世以来の浦刀珎(うらとね)の伝統をうけつぐ大網元がこの島には存在しなかったことがあげられる。近世初頭に浦騒動があって浦人が離散し、沼島の中世以来の体制は壊滅していた。
年 代 |
庄 屋 |
宝 暦 4 (1754)
天 明 2 (1782)
天 明 6 (1786)
寛 政 2 (1790)
寛 政 11 (1799)
寛 政 12 (1800)
文 化 1 (1804)
文 化 4 (1807)
文 化 10 (1827)
天 保 3 (1832)
嘉 永 3 (1850)
安 政 3 (1854)
安 政 6 (1857)
明 治 4 (1871)
明 治 7 (1874)
|
七郎右衛門
貞右衛門
多田七郎右衛門
〃
〆田貞右衛門
〆田路平
多田新之助
〃
多田七郎右衛門
七郎右衛門
島田源兵衛(志筑)
立田虎三郎
岡太郎兵衛
岡太郎
戸長 岡儀八郎
|
長右衛門
七郎右衛門
〆田長右衛門
〆田貞右衛門
多田新之助
奥野弁吉(油谷大庄屋)
榎本新五郎(阿万)
実右衛門
|
新規に復興した沼島はいわば規模の相似た漁師たちの共和的な体制のもとに維持されていた。産をなすためには海部屋のような廻船業、仲買業に進出することが必要であり、それは海難の危険が絶えずつきまとって繁栄を永続するのが至難であったのである。
沼島にはいわゆる地方(ぢかた)史料が全くといってよいほど残存しない。門閥家の隆替が激しかったことと共に、火災をあげうる。何しろ800軒近い漁師の家が、狭い地域にひしめき合って並んでいるから、出火は忽ち大火になる。台風をまともに受けることも多く、また津波の被害も少なくなかった。沼島の自然環境は決して穏和であったとは言えない。だからこそ中世には海賊的な生き方をしてきた島なのである。
現物は所在不明であるが、故本田政義の筆写された寛政7卯年分(1795)阿万組沼島浦高物成納方帳というものがある。伊藤半右衛門の署名がある。奥書によれば天明元年(1781)に御年貢米麦ならびに水子役銀などが算用して取り極められたが、沼島浦の高は355石1斗1升9合、そのうち加子頭144人半分の居屋敷や池床引、池溝床引など60石1斗3升4合5勺を差し引いて、有高は294石9斗8升4合5勺であった。その内高で、本浦は227石6斗4升4合5勺、物成は貢租率4割の契約であるが、その年は八歩免で三ツ二歩の請高、麦は京升で31石7斗余、清水・蜂が谷・風呂谷・浜田・田分などの合計61石1斗1升5合のうち、物成は19石5斗5升4合で四ツ成にも拘らず八歩免の3割2分うけ麦で5石5斗余(京升)、宝暦13年(1763)3月改の新開田は三ツ五歩の請で1升6合(京升)を出す定めであった。払方では庄屋給や沼島浦御分一所の経費、加子頭の給分や加子役の居屋舗給、加子役銀などが目につく。水主(かこ)143人半の役銀は2貫870匁でほかに3割増861匁の手当が出されている。また去る己年(天明5年)に浦人困窮といって60石を拝借米として貸し付けている。
沼島の全盛期は化政年代(1804〜1830)だと言い伝えている。海商の最盛期がその時期に相当するからであるが、沼島の体制的危機は実はすでにその頃に始まっていた。
今、中傍示(中ノ町)が伝える共有文書に、文政8年(1825)8月の定書がある。去る文化13年(1816)8月に出されたものを重ねて厳しく申渡したものだと書かれている。
定(写)
一、先年より被仰出之御ケ条御趣意、夫々堅相守へく事
一、第一火用心之事
一、喧嘩口論之事
一、しけ之節、公儀御船ハ勿論、他船地舟とも見及次第助勢可致事
一、女相手取けんくわ口論仕間敷事
一、樽入答上猥りに取捌仕間敷事
尤無拠趣意有之儀候ハゝ浦役人手元江申いづべき事
一、何等之儀に拘わらず徒党ケ間敷儀仕間敷候事
一、諸御役人并ニ所役人江対し無礼無之様、兼而相心得可申事
一、祭礼之砌檀尻ニ付是迄度々喧嘩口論不埒成儀有之ニ付、当年より堅指留申筈之処、格段之御趣意を以被仰付候条、重々神妙ニ可相守事
一、檀尻引方之儀夫々綱さき拾間宛除候事、尚又出張御役人并ニ所役人江拾間程遠慮可致事
但檀尻裁判町内宿老之者、并ニ若者頭付添重々裁判仕、聊不埒猥事堅相守べく事
一、檀尻引人数相減申筈、年切奉公人すべて他処之者壱人にても指留申筈、此上不埒成儀有之ニおひては裁判之者迄茂同断御咎メ被仰付事
一、檀尻先に喧嘩口論仕においてハ趣意に不抱双方とも明年より檀尻堅指留可申事
一、地盤之趣意を以祭先き并ニ盆等けんくわ口論仕におひてハ無御手当御咎被仰付事右之条々去ル文化十三子年秋八月被仰付、尚又此度被御 念入稠敷被為仰付候条、重々堅相守り神妙ニ可致候 以上
浦 役 人
文政八酉年
八月 日
若者ともへ
全文に振り仮名がうってあり、文面がももけてかなり破損しているのは、毎年々々若者たちに読み聞かせたためである。天保7年(1836)7月8日付の中ノ丁若中は喜左衛門以下106人の署名がある。中ノ丁(中傍示)だけで100名以上の若者組が居たのだから、泊、北、南、などの沼島浦全体では数百人の若者がいたであろう。それだけに祭礼の檀尻引きには喧嘩口論がつきもので、前記の定書にもかかわらず喧嘩になることが多く、そのたびに若者頭や船裁判から請書(うけしょ)(始末書)が提出された。
安政6年の覚書に「神輿に糸や銭を打付けないこと、神輿に汐を掛けないこと、但し襦袢のすそ以上は海に入らないこと、若者頭を町から一人宛裁判に出すこと、檀尻の引方人数は昨年どおりにすること」などと書いたものがある。これも紛争を避けるための申合わせである。
幕末になると沼島浦の船も随分遠方へ渡航するようになった。酉7月とのみあって年不詳であるが、淡州沼嶋の船頭源兵衛、水主源之助・源左衛門・勘右衛門・定吉・八郎兵衛の6名が、ウルップ嶋へ渡航し格別骨打りであったとして船頭に3両、水主に2両ずつの金子が下された書類が残っている。文化4年には沼島浦八兵衛の4枚帆の船(船頭水主4名)が五島に出稼ぎに行っており、安政三年にも弥三兵衛の3枚帆の船(船頭水主3名)が同じく五島に行った記録があるが、このような遠洋への渡航の経験が生かされたのであった。
嘉永5年(1852)ころ泊に伊藤敬助という医者がいた。その子孫は「痘疱論」「丸散方嚢秘録」などの当時の医書や薬戸棚などを伝えており、また家伝の膏薬の調剤法も伝存している。
明治3年の切支丹宗門仕上帳の控がのこっている。明治当初のなお旧態の維持されようとしている事情をしのばせるが、新しい時代は旧藩の伝統の温存を容認はしなかった。さきにふれた明治30年の漁場の訴訟は原告(沼島)の請求が却下されて敗訴した。
明治維新で沼島浦は徳島県に含められることになったが、明治4年(1871)11月に名東県に属し第11大区第13小区と呼ばれるようになり、こえて明治9年(1879)8月には淡路は兵庫県に移され、淡路国第1大区第13小区と改称された。明治22年(1889)4月に従来の沼島浦から村制施行によって沼島村となった。その後、昭和30年(1897)4月に賀集村・北阿万村・阿万町・灘村・福良町・沼島村を合併して南淡町となり、従来の沼島村役場は南淡町役場沼島支所と呼ばれるようになった。明治以後の沼島の人口推移は次表のとおりである。
|
男 |
女 |
計 |
戸 数 |
明治 24年3月
大正 9年10月
昭和 5年10月
10年10月
15年10月
22年10月
25年10月
29年2月
35年
|
1532
1319
1217
1174
1065
1380
1243
1148
925
|
1361
1224
1135
1030
978
1451
1319
1208
1083
|
2893
2543
2352
2204
2043
2831
2562
2356
2008
|
799
659
646
632
550
−
657
586
−
|
明治以後、減少衰退の一歩をたどっていた沼島は、戦後、復員兵士の帰村と戦災者の帰村などで一時的に膨張したが、経済復旧が進むとともに急激に人工減、戸数減に陥っている。合併に踏み切るまでの沼島が離島振興法の指定を受けることを先決と考えた理由は、過疎現象から言えばまことに無理からぬものをもっている。
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