倭文の由来

○シトオリという織布   
 倭文とは倭文(しず)『旧事記』という織物の名で、正しくは「シズリ」「シドリ」『和訓栞』「シズオリ」『天武記』等と読むべきで、これを「シトオリ」となまって読むのは最も拙い読みかたである。この織物は楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で、その横糸を赤青の原色で染めて乱れ模様に織ったもので、つまり横シマの楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布であるという。
 
 三原郡緑町と三原町(両町とも現在は南あわじ市)の倭文付近は『和名抄』にでている「三原郡倭文郷」の地である。「倭文」という地名は、『和名抄』に次のように見える。
 常陸国父慈郡倭文郷  美作国久米郡倭文郷  上野国那波郡倭文郷
 淡路国三原郡倭文郷  因播国高草郡委文郷
 「倭文」「委文」ともに、「之土利」「之止里」と訓注されているので、「しとり」と読んだのである。三原町倭文委文の「委文」は、現在「いぶん」と読んでいるが、これももとは「しとり」である。
 『日本国語大辞典』によれば、「倭文」は「しず」とも「しつ」とも読み、古代の織物の一種で、梶の木・麻などで筋や格子を織り出したものをいう。『大漢和辞典』によれば、「倭文」は「しづ」「しどり」とあり、「しどり」は「しづおり」の約とある。『織物の日本史』によると、「倭文布(しずおり)」は、五世紀後半から確立される部民制的生産機構に編成された一つの倭文部民(しとりべ)によって生産されたものである。
 
 「工芸資料」では「シズ」は筋のことである。今日説く縞(シマ)とは島物の略で、もと南方諸島より渡来した布の意であるとする。
 
 一説にシズとはオモリのことである。これの織機は農家で用いていた「わらむしろ」を作るような原始的な機械で、相当なオモリを必要としたであろうことから、かく呼ぶのであるという。
 
○倭人と海人族
 シズオリの意義はいずれであるにしても、この織布は九州北部より南部朝鮮等をも占拠していた海人族の技巧品であって、古代海人族は支那(中国)と交通しており、そこでは一般にこちらを倭と呼び、民族を倭奴と称して属国の取扱をした。中国で日本のことを記した最初の書物は「前漢地理志」「後漢書東夷伝」であって、これらの書では、日本を「倭」、日本人を「倭人」と呼ぶ。それは日本人が自分のことを「ワレ」と言ったので、日本のことを「ワ」と称えると合点した中国人が「倭」の文字をあてたのだという。
 さて、「倭文」の場合、「倭」が古代日本の意、「文」は文布(あやぬの)の略語で、アヤのある布の意、(アヤとは光彩、色彩、模様をいう)で、古記には文布と記してシトリと読ませたのである。そこで倭人の織りなす文布という意味より、倭文の文字をシズオリと読ませたということになる。
 
○倭文部民
 淡路は野島の海人、御原の海人など早くより大和王朝に服属した海人族の発展地で、神話を生んだのもこれらの海人達であるといわれる。それらの中で、倭文布の織工集団、すなわちシトリ部の住んでいた地方を後世倭文郷と称えるようになったことは容易に了解せれる。その首長は宿弥(すくね)という姓を与えられて、大和朝廷より相当に重用されていたらしい。
 
○倭文神社
 また、倭文部のあるところには倭文神社があるのが通例である。倭文織の開祖は俗に倭文明神という系統不明の神とせられ、現に庄田八幡神社に合祀(ごうし)せられている。
 倭文神社は、南あわじ市(旧三原町)倭文委文中村にあることから、倭文布を製産して取引した中心地は委文中村であるといわれる。

   
南あわじ市(旧三原町)倭文委文にある倭文神社




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