庄田八幡神社

 庄田八幡神社は、最初助吉村(現倭文安住寺)にあったが、助太夫という者が、今の地に移したと言い伝えられ、 現在もその地には「ミヤマ」「ホンデン」「カグラデン」等の畝号が残っている。
 この神社は、誉田別名(応神天皇)が奉られており、脇座には倭文明神等八座が奉紀され、 庄田、神道、土井、安住寺、倭文、高、奥畑の一部、八部落、約四〇〇戸の氏子をもっている。
 元来、全倭文郷の鎮守であったが、ある時代の祭札の席で争論があり、その後、長田は分離し、 分霊を現在の長田八幡神社にまつるようになったといわれる。
 庄田八幡神社は、むかしから武将の文明三年(一四七一年)庄田城主船越定氏が大蛇退治の際、 社前において祈願し、その功なって、鳥の舌・雁股の二鏃を奉納していたが、慶長年間中、 入交隼人という者が京都に持ち去ったとも古書に記されている。
 現在、数多くの刻銘、刻画瓦と共に、室町時代の瓦も数多く見い出され、 隣の平等寺とともに、南あわじ市(旧緑町)の中世の歴史をひもとく貴重な建造物といえる。


    
   庄田八幡神社 


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